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民話・伝説・由来のリスト
- 2007/08/21(Tue) -
 ペラナカン ハン・リーポー
 擂茶の由来
 マースリ王女の伝説パート1 パート2 
 マレーシアのお化け ポンティアナック・パート1 パート2
 マレーシアのお化け ラングスィール
 マレーシアのお化け トヨール
 ディパバリの由来
 サンカンチル・パート1 パート2 パート3
 中秋節の故事
 肉骨茶の由来
 十五夜 ペナンのみかん投げの由来
 好市發財と魚生


 ハードロック・カフェの始まり
 博多どんたく
 客家族
 ベジマイトの歴史
 大英帝国勲章
 フリーダム・オブ・ザ・シティ・オブ・ロンドン 
 アルムズ・ハウス
 フォートナム・アンド・メイソン(デパート)の始まり
 アフタヌーン・ティー
 Limey (Limeies 複数)の語源
 カルピス
 シュークリームの伝来
 大根 Lobak
 A&Wの名前の由来
 Bangkok - 名前の由来


 マレーシア王室の礼装
 アゴン就任式プロトコール
 イスタナ・ネガラ(宮殿)
 アゴンとスルタン
 マレーシアの称号パート1 パート2 パート3
 マレーシアとゴムの木

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播茶(ルイチャ)の由来
- 2007/05/08(Tue) -
未来のロングステイヤーマサラッキさんが訪馬された時、現役KLロングステイヤーのアヒルさんに案内して頂き、タイムズ・スクエア裏手にある「河婆」に擂茶(ルイチャ)を食べに行きました。

この河婆レストランの擂茶は 日本人に人気があるようです。
アヒルさんKL生活日記のmisa-88yさんもリポートしています。


ruicha1

ruicha2   ruicha3   ruicha4

野菜と幡茶をかけたご飯    豚肉とお餅の煮込み      揚げ豆腐のサラダ(?) 



食後の感想
  私         → 「美味しい~! また来るぞ! 」
  アヒルさん    → 「ウ~~~ン・・、これが美味しい・・・?」
  マサラッキさん → 「美味しい」・・・て言ったよね、ネ?!

人によって好き嫌いがあるようです。
ドリアンと同じかな?


播茶のお店は、このプドゥ刑務所近くの「河婆店」の他にも、ペタリング・ジャヤのタマン・メガ(Taman Megah)にもあるそうです。
そのお店の播茶は完全なベジタリアンですから、イスラム教徒の方も食べられますよ~! 
タマン・メガの播茶のお店は    をクリック



ご飯なのに どうして擂・・・?
河婆って何・・・?

不思議だったので、調べてみました。

「河婆」 とは広東省にある地名のようです。
ですから、「河婆客家」とは、河婆出身の客家人のことです。 → 客家民族について
そして「擂茶」は、客家料理だということがわかりました。


「擂茶」を検索していたら、「擂茶の由来」を見つけたので、それを訳します。

The history of Ho Po Hakka Lei Cha  


河婆客家の擂茶の由来 

湖南省の桃花源地区に住む人々は、お昼ご飯に擂茶(「砕いたお茶」と言う意味)を食べます。 大事なお客様が見えた時にも擂茶の用意をしてもてなします。 この擂茶を食べる習慣は、三国時代(220AD~265AD)に始まったと信じられています。 この習慣は、多くの河婆客家が住む廣東省の揭陽や揭西に、客家族が南下した時に伝わったそうです。


蜀の国の劉備(リュウベイ)将軍が、大軍を率いて出陣した時、烏頭村(現在の湖南省桃花源)で野営しました。劉備将軍は、兵隊の半数がインフルエンザにかかっているのに気付きました。皆、起き上がれない程弱っています。そこで劉備将軍は 医療班や村の医者に、治療を命じましたが、一向に良くなる気配がありません。

そこへ、竹林で覆われ、桃が一杯採れるという山から、一人のお婆さんがやって来ました。お婆さんは、病気の兵隊たちを治してあげると言いました。 それを聞いた劉備将軍は喜んで,お婆さんに早速治療を始めるように頼みました。 お婆さんは病気の兵隊たちを看病することはせず、自分の指図どおりに動いてくれる兵隊を60人欲しいと劉備将軍に言いました。 劉備将軍は、すぐに兵隊を集めました。

お婆さんは、10人の兵隊におコメを挽くように、10人の兵隊にはショウガを掘ってくるように、10人の兵隊には市場に行ってお茶の葉を買ってくるように、10人の兵隊には薪を割るように、10人の兵隊には大きな釜でお湯をわかすように、10人の兵隊には6センチ位の長さに切った竿60本用意するように言いました。

兵隊達はお婆さんに指図された材料を総て揃えました。お婆さんは、米を挽いた兵隊には米を水に浸けるように、ショウガを掘った兵隊にはショウガを洗うように、お茶の葉を買って来た兵隊には茶葉を洗うように、言いました。 それが終わると、お婆さんは30個の(すり鉢状の)土器に挽いたコメ、ショウガ、茶葉を分け入れました。そして二人一組になって、6cmに切った竿を使って土器に入れた材料をペースト状になるまですり潰し、お湯がグラグラと煮え立つ大釜にそれを入れるように言いました。 材料が大釜に入ると、お湯は茶色いスープのようになりました。 お婆さんは、その熱いスープを茶碗に注ぎ、病気の兵隊に配りました。 兵隊達は、その熱いスープを飲んで、ぐっすり寝ました。

次の朝、目覚めた兵隊達は 病気がすっかりよくなっていました。 劉備将軍と兵隊達にたいそう感謝されたお婆さんは、喜んで村に帰って行きました。 このようにして、この砕いたお茶(擂茶)を飲む習慣が広く知られるようになったのです。後に客家族が南に移住する時に、擂茶の習慣も一緒に持って行きました。 そして客家族が世界中に移住するにつれ、擂茶も世界中に広まりました。

作者:CHUNG Yoon-Ngan (鄭永元)

 

hor poh ahbah河婆店
Hor Poh Kitchen Restaurant
No.148 Jalan Ghangkat Thanbidollah, Off Jalan Pudu
55100 Kuala Lumpur
Tel/Fax:03-2145-2332  


【2014年12月追記】このお店は閉店しています。
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マースリ王女の伝説パート2
- 2007/04/24(Tue) -
昨日のマースリの伝説パート1の続きです。
 


mahsuri1 
マースリの処刑から間もない1821年、ランカウィはシャム軍に侵攻されました。 攻めてくるシャム軍を飢えさせようと、ダトー・カルマ・ジャヤは島の米を全部パダン・マット・シラッに集めて焼いてしまうように命じました。

カンポン・ラハ (ラハ村) にあるパダン・マット・シラッの封鎖された一画では、いまだに焼け焦げた米の残骸を見ることができます。 それは、雨が降った後によく出てきます。

こんなに長い月日が経ったのだから、米は土になってしまうはずだと思う人もいるはずです。 自分の目で、見たり経験したりしなければ、信じられないことだってあるのです。 この村長とその息子達はシャム軍との戦いで戦死してしまいました。 村長の妻さえも、死を逃れることはできませんでした。

マースリの死から数十年後、ランカウィの人口は減少し、苦難時代に突入します。 不運続きに悩まされ、この島は荒れ果ててしまいました。

マースリの家族はランカウィを去り、タイに移り住みました。 2000年に ケダ州政府が プーケット島に住む彼らを見つけ出すまで、彼らの居場所を知る者は居なかったのです。 州政府は、彼らをランカウィに招待し、マレーシアへの永住権も提供しました。七代に亘るマースリの呪いの終わりは目前です。ランカウィの人々は、マースリの子孫がランカウィに来たら、悲しい過去を忘れ、ランカウィの繁栄と発展が期待できると思いました。

               wan aisha
        有名な先祖マースリの肖像画の前に立つワン・アイシャ

偶然の一致かどうか・・・マースリの子孫の第七世代には子供が二人居るのですが、その内の一人である(2003年当時)14歳の美しい少女、ワン・アイシャ・ナワウィはびっくりするほど ずいぶん昔に描かれたマースリの肖像画にそっくりです。 マースリの子孫は、ランカウィに戻りマレーシアの市民権をとるかどうか、まだ決めかねており、プーケットに帰ってしまいました。

マレーシアの人々にマースリを紹介したのは、マレーシアの初代首相の故トゥンクー・アブドゥル・ラフマン・プトラ・アルハジです。 若い頃 ケダ州の役人だったトゥンクーは、仕事でランカウィを訪れるたびに、マースリのお墓にお参りしたいと思っていました。 でも墓の在り処を知る者は一人もいませんでした。 「マースリの墓を探し出そう!」とトゥンクーは決心しました。 なかなか見つからなかったのですが、初心貫徹の人トゥンクーは、辛抱強く探し続けました。 ある日、下生えの藪の下に隠れた一つのお墓を発見しました。

それがマースリの墓であるという記しは何もなかったのですが、トゥンクーは見つけたと確信しました。 トゥンクーは中国人の業者にマースリのお墓を建てるように頼みました。 マースリのお墓が建てられて間もなく、トゥンクーは昇進し、後にマレーシアの初代首相になったのです。 そしてマースリの墓をタダで建てた業者には、有利な仕事が舞い込むようになり、商売が繁盛するようになりました。

事実であれフィクションであれ、この呪いは過去七世代の間、ランカウィに破壊と悲運をもたらしたと信じられています。 以前のランカウィは、村人よりバッファローの数のほうが多いとまで言われていました。ランカウィが繁栄するようになったのは、つい最近の1980年にマースリの直系子孫の第八世代アイシャ・ナワウィが生まれてからのことです。

マレーシア人にとって、マースリは伝説以上のものです。 彼女は「真実・善良は必ず勝利を収める」という言葉の典型だからです。 そして、マレーシアを植民地支配から解放したように、トゥンクーがランカウィ島をその過去の束縛から解き放ったのです。



makam mahsuri現在のマースリの墓は、ランカウィの丘から採石された白い大理石で作られています。 白い色は、彼女の潔白を象徴しています。
その近くには彼女が使っていた井戸があります。
墓の近くには、彼女の子孫の写真が展示されています。


abcmalaysia.com のご厚意により、写真の掲載を許可していただきました。




歴史学者によると、マースリの伝説には 少なくとも14のバージョンがあるそうです。

2000年にマースリの子孫がランカウィに来て語ったことによると、マースリの不貞の疑惑が 上のバージョンとはちょっと違います。


旦那が留守の間、マースリを誘惑しようとした旦那の弟は マースリに拒絶され、それを逆妬みして兄(旦那)にマースリが不貞を働いているという嘘の手紙を書いたのです。
その手紙を読んで怒り狂った旦那が、マースリの処刑を命じました。
マースリの処刑後、旦那とその息子はプーケットに移り住んだそうです。




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マースリ王女の伝説パート1
- 2007/04/23(Mon) -
ランカウィ島が リゾート・アイランドとして注目を浴びるようになったのは 90年代になってからです。
当時のマハティール首相が、LADA(Langkawi Development Authority)を組織し、ランカウィの観光開発に努めた結果です。 

日本でも 首相の出身地は開発が進むと言われますが、マレーシアでも同じことが言えるかな・・・? ランカウィはケダ州。 マハティール元首相はケダ州アロースターの出身です。  

一般に ランカウィ島の開発が遅れたのは、マースリ王女の呪いのためだと信じられています。

4月19日にご紹介したカンポン・トゥ・セニ・リゾートの近くに 伝説の王女マースリのお墓 (Makam Mahsuri) があります。

abcmalaysia.comに、そのマースリ王女の呪い、その後のランカウィについての詳しい記事がありましたので、それを訳したいと思います。
長いので二回にわけて投稿します。 



mahsuri1THE LEGEND OF MAHSURI 
マースリの伝説


これは、今から200年ほど前のランカウィに住んでいた美しい女性のお話、ランカウィでは一番有名な伝説です。
 


昔々 ランカウィに、シャムから移り住んできたイスラム教徒の夫婦が居ました。パンダッ・マヤとマッ・アンダムの二人は子宝を授かるように、いつも神様にお願いしていました。

やがて彼らの祈りは叶い、マースリという素晴らしい娘を授かりました。美しい女性に成長したマースリは、気立ての優しい大変な美人でしたので、ランカウィの支配者の息子であり武士だったワン・ダルスは彼女に夢中になり、すぐに妻に娶りました。 

結婚後間もなくして、彼女の夫のワン・ダルスは、攻め入って来るシャム軍との戦い出陣することになり、幸福だった結婚生活は壊れてしまいました。そんな時、吟遊詩人のデラマンが村にやって来ました。

デラマンと気が合ったマースリは、仲良くなりました。
そのうち、マースリはデラマンを家に泊めたと噂されるようになり、その噂は 彼女が不貞な妻だという悪意に満ちたゴシップに変わってしまいました。

彼女は、ハンサムなデラマンと不義を犯したと濡れ衣を着せられ、陰謀の犠牲者となりました。

この裏切り行為の理由に関しては 色々なバージョンがあります。
一番信じられている理由は、マースリの姑であるワン・マホラが彼女の美しさと人気を妬み、陰謀を企んだというものです。


他には、村長であるダトー・カルマ・ジャヤ(マースリの舅)が彼女に夢中になるあまり、息子の留守を利用して彼女に近づこうとしたことが 妻(姑)に発覚してしまい、面白くない妻がマースリを処分してしまおうと企てたというバージョンもあります。

こういう訳で、マースリは不貞の罪に問われ、義理の父親であるダトー・カルマ・ジャヤに死刑を宣告されたのです。

マースリの両親や子供が泣きながら懇願したにもかかわらず、彼女は引きずり回され、木に縛りつけられました。 マースリは身の潔白を強硬に主張し、慈悲を求めましたが、村長の妻の言いなりだった村人は容赦しませんでした。伝説によると、死刑執行人が使った刀や鉈ではマースリを傷つけることすらできなかったそうです。自分達の投げた槍が彼女を傷つけることなく彼女の足元に落ちるのを見て、村人は困惑しましたが、マースリの悪行を確信していました。彼らは彼女の潔白を信じるべきでした。

とうとう、マースリは自分が死ぬ以外に村人を静めることはできないと諦めました。そして自分の家にある儀式用の剣だけが自分を殺せると彼らに告げました。村人がその剣を取りに行き、マースリがその剣で刺された時、空は雲に覆われ、雷が鳴り響いたそうです。

        mahsuri

「クリス」と呼ばれる神聖な短刀で刺され 処刑された彼女の体から流れる白い血を見た村人は、衝撃を受けました。白い血は彼女の潔白を象徴していたからです。彼女の処刑時に、突然白い霞が起ったと言う者もいます。これは彼女の潔白に対する哀悼の意だと信じられています。

マースリは、「この不当な行為が祟って、ランカウィは今後七世代の間 繁栄することはないだろう。」と言って息を引き取りました。 彼女が有名なのは、この呪いのためです。 

--→ 明日に続く




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マレーシアのお化け Pontianakパート2
- 2006/11/03(Fri) -
マレーシアのお化けトヨール(Toyol)ラングスィール(Langsuir)ポンティアナック(Pontianak)パート1と続きましたが、今日のポンティアナック・パート2でお化けのお話は終わりにしようと思います。

今日は、ポンティアナックについて人々が信じていること、言い伝えられることをかき集めてみました。  
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